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罪と許しの法則
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罪と許しの法則
あまりにも多くの事柄が、現在と将来とを問わず、夫として、また妻としてのわれわれの生活におけるあまりにも多くの事柄が、われわれにこの事実を思い起させる。新約聖書の中の姦淫の時捕えられた女の物語は全く真実である。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネ七・八)。その領域においては、いかなる自己義認も全くの偽善であることをわれわれは知っている。
「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイ五・二八)とあるからである。しかり、堕罪は神的な結婚の制度を、神がわれわれに与え給うた肉の結合を台なしにしたゆエロースは、われわれ人間の関係の中にその支配、征服、利己心、権勢欲の法則を導入した。罪ある夫として、また妻として相手を見る時、われわれはもはや、いかにしてわれわれを完全に与えるか、自己を犠牲にするか、互いのために生きるかを知らない。われわれは、まずわれわれ自身の欲望、われわれの趣味、われわれの性質を満足させようとする。
われわれは全く非常に孤独であるが、神共にいます、すなわちイソマヌエルを受けいれることを拒む者にふさわしい刑罰こそ、神がいまし給わぬばかりでなく、隣人すらないことなのである。罪は結婚の結合を破り、夫婦間に鉄のカーテンを引き、傲慢と利己心で各自を孤立させる。創世記の物語も、堕罪の直接的、ほとんど自動的とも言うべき結果が、この孤独、この分離であることを告げている。アダムとエバはほんとうに一体であったのに、互いに他から離れてしまう。「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いた」(創世記三.七)。夫婦間相互の信頼は董恥に代る。すなわち、和合の代りに敵意がくるのである。
しかしながら、罪は結婚を破滅せしめない。それは、当然神の創造物を滅亡せしめるべきであったにもかかわらず(なぜなら、「神は悪を見逃し得給わない」から)、そうしなかった。神は創造者であり給うのみならず、また必然的に救い主でもあり給う。万物の最初から、われわれは、万物をつくり給うたイエス・キリストのものである(ヘブル一・二)。そのゆるしとその救いの恵み、われわれの結婚がいかに汚れ、悪にそみ、滅びていようとも、これを回復しうるいやしの恵みを乞うて、謙遜に悔い改めつつわれわれのゆくべきところこそ、彼の御もとである。
われわれは罪によって神の結婚の賜物をこぼったが、新たにされ、清められた結婚、新しい肉の結合を彼から受けることを期待することが許され、また期待しなくてはならない。ある意味では、夫婦たるものが自らは成就しまた保つことのできないと思う肉の和合を受けることを望み得るのは、聖霊の一致を神に求めることによってである。ここで再びわれわれは、結婚・とイエス・キリストのわ丸われに対する愛との類比を想起しなくてはならない。
イエス・キリストの模倣がここでも鍵である。人間性の邪悪が結婚を破るおそれのある時、その結婚を保つ唯一の望みが神の恩寵である時、夫婦のつとめはその恩寵にかたどった相互のゆるしである。あらゆる人間関係におけるがごとく、おそらくは他の場合にもまして、ゆるしこそキリスト者の結婚の鉄則である。それはもちろん人問的なゆるしをもてあそぶことではない。夫婦は、この場合すべてを許すことができると信ずる権限をその中に認めてはならないのである。
それはただ「われらのゆ為すごとく、われらの罪をもゆるし給え」ということを共に学び、毎日新たに祈ることである。ゆるしがキリスト者の結婚の力となり、揺がぬ基となるのは、本当にイエス・キリストのゆるしを模倣することによるのであって、人間の寛容に頼ることによるのではない。聖書が結婚の堕落したもの1淫売、姦淫、風紀棄乱-をいかにしばしば偶像崇拝と関連せしめているかは驚くばかりである。イスラエル民族は、他の神々を拝した時、不貞な妻あるいは淫売婦として描かれているが、使徒パウロは偶像崇拝の中に性的無秩序の源泉を見出す。
ゆえにキリスト者は、性的欲望のいかなる誘惑にかかる時も、イエス・キリストにかえることにおいてのみ、その療法とこれに打ちかつ勝利を求めなければならない。iそれは、肉の結合を禁欲的に拒否して逃避するためではなく(宗教上の理由による独身という特別の場合は除く。これについては今ここでは取りあげない)、聖霊によって肉の結合の真の変容を与えられんがためである。
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