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結婚
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唯一不可分性
今日多くの青年、殊に学生は真剣な態度を持たず、自由結婚によって表わされる結婚の堕落を軽々しく考える風潮が多くなった。これとしばしば同じ意味になるが、ここでは恋愛遊戯の種々相について言っているのではない。キリスト者でさえも、なぜかかる関係が彼らの信仰と矛盾するかということをはっきり認識しない。この道徳的弛緩のために、種々の怜倒なもっともらしい弁明がなされる。
心理学的にも、社会学的にも、道徳論と戦うことはむだである。唯一の答は、いかなる結婚が神の意志と恩恵に相応するかを再確認することである。自由結婚という言葉そのもの、すなわち、完全に撤回し得るという基礎の上に立った相互契約による単なる連合としての結婚め観念は、肉の結合の不可分離性を無視するのみならずー「遊女にっく者はそれと一つのからだになる」(エコリント六・一六)ー神のその教会に対する愛め模倣および比喩としての結婚の意味をも無視している。
これは結婚におけるアガペーの代りに工舜ースを代用すること、すなわちイエス・キリストの愛に従ってではなく、自分自身の欲望に従って生きること、全く自己を神とし、聖書がイエス・キリストの神の敵とみなす富や財宝の神、マソモソを礼拝することにほかならない。
同じ態度が、離婚についても取られなくては.ならない。一般原則として、離婚は神の意志し給うた肉の結合を人間的な理由で終止せしめ、聖霊の賜う一致の代りに人間の傲慢、貧欲、利己、憎悪を置き換える。ふたりの人間の結合を成就するものとしての結婚は、本来唯一不可分なものであるll永遠の生命においてさえも離すべからざるものである(われわれはそれを望むことを許されている)。
なるほど復活の後には人は結婚しないであろ5(マタイニニ.二三-三〇)。そして二体」という言葉ば、万物が新たにせられる神の国においてはその意味を失う。しかし神の意志に従う地上のあらゆる物は絶えずよみがえり栄化され、しかもなお認められつづける。いかに不思議であろうとも、この前途の期待が神に結婚の恩恵の広大さを感謝するもう一つの理由でなくてはならない。
以上ではまだ生殖のことについて述ぺなかった。しかし、最初に注意したように、結婚の制定には生めよふえよの秩序が含まれている。すなわち、子供を産むことが結婚にとって重要なことである。だが、いかに重要であっても、生殖ば、ある神学者のいうように結婚の存在理由ではない。結婚がまず第一に聖霊によって変容された肉の結合であることに変りはない。結婚は、基本的には夫婦にかかわることであり、子供によって豊かにされなくとも、神的秩序による真の結婚であることを止めはしない。
それは、依然としてその確実性と預言者的意義を保持する。しかし子供の誕生が夫婦にとって神の付加的恩恵であることは明らかである。子供は、結婚の、その結合それ自身の自然の部分である。新しい人間の出現が夫婦を引き離すどころか、彼らにとってさらにいっそう強い紐帯であること、新たな愛情を生み出す心理的紐帯であるのみならず、さらに深ぐ肉の結合を長くし、聖霊の一致にもあずかる本体論的紐帯でもあるということは非常な奇跡である。
両親の肉から生れ、その体に、心に、魂に、その結合のしるしを遺伝的特微の形で帯びている子供は、彼らの聖霊による結合からもまた益を受ける。キリスト者の子供はきよいとパウロは言っている。旧約聖書には、すでに神が父の罪を子に報いて三、四代におよぼすならば、神を愛しその戒めを守る者にぱ、恩恵をほどこして千代に至るとある。
結婚において与えられる神の恩恵はなんと無限であろう。結婚によって人は孤独でない。彼は、われわれなしで生き給うことを望み給わぬ神と同じように生きる。結婚を通して、彼は最初からひとりでなく、子孫の連帯責任によって支えられている子供に生を与える。お互いのために生きる時、夫婦はまた彼らの子供のために、そして子供の子供のためにもこの結含を十全に達成することができる。
神との人格的交わりを知りまた信ずる前に、すでにわれわれの子供は神の絶えざる恩恵に包まれている。彼らはイエス・キリストの救いから益を受ける。その大いなる喜びにおいて、結婚はその役割を演ずる。なるほど両親は益なきしもべで、イエス・キリストのみが救い給う。しかし、少なくども両親は、この光栄ある奉仕に召されるよろこびを享受することができるのである。
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